Mind Circus

雑記

2003年05月

1967年5月16日 牡牛座のA型

 至近距離でも跳ね返す、超人的な反射神経を持つ選手。Jリーグ元年の93年、土田の怪我により出番が回って来たが、新加入のミロにポジションを奪われてしまった。
その後、左膝の怪我が関知せず、15ヶ月間のブランクを経て、ようやくオジェック体制の96年に正GKとして活躍する場を得た。
DFのブッフバルト、バジール・ボリ、田口(広瀬)等と、強固なDFを形成し、その年のJリーグ最小失点記録を作った。

 リーグ最終戦の横浜F戦では広瀬に勧められてPKを蹴り、JリーグのGKとしては初めてのゴールを決めた事もある。PKを蹴ったのはGKながらシュート力に自信があるだろうか。
98年には怪我から復帰して来た土田としのぎを削るが、原監督は2人の力が変わらない事から、調子の良い方を起用し、リーグ戦にはそれぞれ17試合づつ出場した経験を持つ。

 J2時代の2000年にはついに背番号1を奪取したが、終盤、個々の力に頼る斉藤采配の問題点が浮き彫りになり、一時はJ1昇格すら危うい時期が訪れ、斉藤氏は失脚。
代わって指揮を取った横山総監督は若手の西部を抜擢。田北は出番を奪われ、同じ年にまさかの戦力外通告を受ける。浦和の守護神としての地位を固めた矢先の出来事だった。
以後は室内競技のフットサルの日本代表入りを果たすが、現在は引退して横浜FCのコーチとして活躍している。

 

 これはあくまで個人的な意見ですが、もう2年、つまり昨年までは現役でいて欲しい選手でした。やはり、西部や山岸ではまだまだ経験不足だった為です。

1972年7月25日生まれ 獅子座のB型

 愛称は野人、または韋駄天・岡野の愛称で親しまれた選手。94年、浦和がまだJリーグのお荷物と言われていた頃、フロントに「直ぐにでも来て欲しい」と言われ、日本大学を中退してレッズに入団。以後、人気者となる。
犬より速く、肺に穴が空いても一日で回復するなど、人間離れした回復力・身体能力の高さがウリだった。(肺に穴が空いたのは、ヴェルディ川崎のGK・菊池との激突による物。V川崎とは、現在の東京V1969)。

 また、ライン際ギリギリからのセンタリングを得意とし、95年の福田正博の得点王のタイトル獲得に貢献した。良く言われるようにただ速いだけの選手ではない。
96年にはベストイレブン、フェアプレー賞に輝いている。97年のアジア最終予選ではついに日本代表入りを果たすが、最後のアジア第3代表決定戦までは1度も出番はなく、
緊張し、再三のチャンスをフイにしたが、ついに日本を初のW杯に導く、ゴールデンゴールを決め、いちやく時の人となり、ワイドショーの話題をさらった。

 99年、アヤックスへの移籍を目論み現地入りするが、残念ながら海外移籍の夢は実現しなかった。チームはその年に屈辱のJ2落ちを経験してしまい、監督が何度か変わる内にいつしか出番を失って行く。
例えサブでも愛着のある浦和に残る事も出来ただろうが、2001年には、神戸に移籍し、サイドのMFとして活躍した。現在は、貴重なスーパーサブとして活躍している。

1973年3月6日生まれ 魚座のO型

 90年代半ばに彗星の如く現れたラッキーボーイ的な選手で、練習生からエースナンバーにまで上り詰めた実力者。Jリーグが固定式背番号になってからは11番を付けていたが、ベギリスタインが11番の方が好きと言う事で、10番を受け継ぐ。
本来はFWだが、ボランチを経験してからはプレーの幅が広がり、戦術眼が磨かれ、攻撃的MFなど様々なポジションをこなした。90年代半ばの浦和を語る上で欠かせない選手の一人である。

 また主力クラスが次々に離脱して行った呪われた99年には、同学年の岡野と共に奮戦したが、福永自身も怪我でリタイア。
その後、J2では怪我をする前まではチームの得点王だった(最終的に2000年のチーム得点王は永井雄一郎)。

 以後、度重なる怪我に泣かされ、徐々に出番を失い、2001年にJ1に昇格したベガルタ仙台に移籍する。
仙台では、いきなり定位置を奪い、チーム躍進の立役者となるが、皮肉な事に古巣・浦和戦で大怪我をし現在はリハビリ中。運動量が豊富な福永を失い、仙台は一気に失速して行くのである。

 

 次回以降は福田、井原は元より岡野、大柴などなど、かつての浦和を支えた偉大なる選手達を取り上げて行きます。ご期待下さい!!

 

※最初は、2000年の秋頃に作った物がベース。2003年頃に追加文を加えたもの。

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